初めての出会いは高田馬場駅前。命がけの演説だった
参議院議員の川田龍平君とは、かれこれ12年のお付き合いだ。彼が初めて参院選挙に出た年、東京・髙田馬場駅前でたったひとりで街頭演説している姿を見て、聴いて心打たれた。
そこで立ち話しをし、握手して以来の友人で、私の誕生会や忘年会には毎回、東京から必ず駆けつけ華を添えてくれた。
久々に徳島に来てくれたので、私の友人、知人らとも旧交を温めてもらった。
川田龍平君といえば日本初の薬害刑事裁判となった『薬害エイズ裁判』で有名だ。今は元気に国会で活躍しているが、思春期の頃、自らが薬害エイズに感染していることを知った時のショックと絶望感はいかほどであったろう。
当時のHIV患者はまさに死を宣告されたのと同じ。その絶望の中で勇気を振り絞り、初めて実名を名乗り国の医療行政と戦った。
薬害エイズ裁判、初めて実名あげて闘う
川田君はわずか生後6ヶ月の時、遺伝性疾患である血友病との診断を受けた。そして非加熱輸入血液製剤で治療を行ったが、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染してしまった。
その事実はわずか10才で母親から知らされ、1993年、東京HIV訴訟の原告(薬害エイズ事件を参照)のひとりに。
他の原告が名前や姿を隠す中、彼は1995年19歳の時に初めて実名を公表、社会に大きな衝撃を与えた。
このためその裁判の実態、国の厚生行政の重大な過ちが数多くのメディアで取り上げられることとなり、裁判は1996年、国との和解に繋がった。
もちろん、国の瑕疵は明らかになり、原告の実質勝訴と言われる歴史的な裁判となった。
『長くは生きられないと思った』と
川田君は裁判に取り組む中、『自分は長くは生きられない』と考えていたようだ。しかし裁判で国を負かすことができたこと、多くの人たちが支えてくれたことが、自分を変えるきっかけになったとか。
そして自分が被害者となった薬害はもちろん、公害、原発事故も根っこは同じと捉え、国会の場で追及している。
免疫力の低下が1番怖いエイズ感染だが、毎日、側で見て心配になるほどハードな日程をこなしている。
今回の臨時国会でも立憲民主党を代表し、水道民営化法案に対する反対討論を、本会議場演壇で力強く行ったところが、ニュースでも報道されていた。
奥さんはジャーナリスト堤未果さん
奥さんは『貧困大国アメリカ』や近著『日本が売られる』(共に幻冬社)などベストセラーを連発しているジャーナリストの堤未果さん。日本が売られるでは水道民営化についても、その危険性について鋭く指摘している。
来年の7月には3度目の参院選挙となるが全国区は相当な体力、気力がいると聞く。身体だけは気をつけて、弱い立場の人たちのためにも頑張って欲しい。
この日も朝8時半から午後2時まで活動したが、ランチをする時間もなく、滋賀県草津市へ向かった。
もりもと なおき