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もう36年。私の中では全く風化していない日航機事故取材

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『1985年8月12日、日航ジャンボ機墜落。私は灼熱の現地で地獄を見た』

阿波踊り初日、午後7時前だった。満席の日航123便ジャンボ機の機影が消えたとの速報が、日本中を震撼させた。
世界最悪の航空機事故。未明まで県関係者の取材をし、寝ないままバッグに愛用Nikonとフィルム10数本を放り込み、着の身着のまま、翌朝一のTDAに乗り込んだ。

灼熱の中、地獄の情景が展開する取材活動がスタートした。私の仕事の歴史、人生で最大の出来事でもあったが、まだ30を過ぎたばかりだった。

一度に700もの棺を見たら、本当に人生感が変わった。群馬県藤岡市。御巣鷹山に墜落した日航123便の犠牲者520人の遺体が市内の小学校の体育館に次々と運ばれてきた。
なぜ棺は700も?遺体の損傷は酷い。腕だけ、片足だけとかも多数。それらも何らかの手がかりを見つけ遺族に引き渡すため、大きな棺に大切に保管されたからだ。

徳島関係の被害者は10数人もいた。とにかくご家族に会わなければならない。遺族の待機所の1つとなった工業高校の体育館へ行ったが、そこだけで1500人はいる。
分かっているのは被害者の名前だけ。ご遺族の顔は私はひとりも知らない。どうやって…かなりの工夫を凝らし、わずか3日で大半のご遺族に会うことができた。

大きなお寺のお嬢さんは春に上智大学を卒業、社会人となって初めての帰省だった。仲睦まじい新婚夫婦もいた。家族4人が別々の飛行機に乗り、母娘が犠牲になった悲劇もあった。

遺体もなかなか判明せず、離れ離れになっていた新婚のご夫婦は、互いのくすり指にはめたエンゲージリングのイニシャルから、遺体の身元が判明した。共に故郷に帰ることができたのだ。
これは私の特ダネで、全国紙やテレビもこのニュースを追った。
全国紙や在京テレビ局は一社100人近い取材陣だったが、私はひとりで闘った。

乗客には坂本九さんもいた。毎日、現地でいろんな関係者の会見も聞いたが、家族に遺書を残した人も多数いた。
あの状況下、死ななければならない無念さ。家族と人生に感謝し、大学生の息子にお母さんを頼むと綴った企業戦士の遺書には泣いた。凄い人だと思った。

後に群馬県の地元紙の取材活動が『クライマーズ・ハイ』という小説になったが、私の取材活動もまさにそのものだった。
あれから丸36年。社会も激変したし、私の人生にもいろんなことがあった。


(写真は映画『クライマーズ・ハイ』から)

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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