日本一の学生街だったのに、理解し難かった多摩移転
御茶ノ水駅周辺は学生時代、一番好きな街だった。駅から繋がる神田駿河台は明治大学、中央大学、日大などがあったが、大学のキャンパスは手狭でも、"国電"御茶ノ水駅を降りたら街自体がこれら大学のキャンパスだった。


近くのニコライ堂の鐘の音も雰囲気があるし、鋼鉄製の御茶ノ水橋にも何とも言えない郷愁を感じたものだ。

学生運動華やかなりし頃は一帯にバリケードが築かれて解放区となり、闘争の拠点となった。学生運動が燃え盛ったパリの学生街カルチェ・ラタンをもじりこの一帯が"東洋のカルチェ・ラタン"と言われた所以だ。
そしてこんな最高の場所から中央大学が八王子のど田舎に移転を決めた時は、全く理解し難かった。
受験生ニーズ離れ、多くの大学が今、都心回帰へ
しかし1978年、その中央大学移転を皮切りに多くの大学が多摩丘陵を切り開いた新キャンパスへ続々と移転したから、当時はそれがトレンドだったのかもしれない。

しかし40年以上が経った今、少子化や受験生の都会志向も手伝って、逆に次々と都心に戻っている。
多摩丘陵ではないが、一時、神奈川の厚木や相模原に一部移転した青山学院大学は、渋谷に戻り、人気は復活、やはり青山にあってこその青学ということを証明した。
名門中央大学法学部、待望の都心回帰へ
そして田舎移転の元祖とも言える中央大学が、とりあえず23年から自他共に認める看板学部『法学部』が都心に戻ってくる。
丸の内線茗荷谷駅からほど近い文京区大塚1丁目に移転し、優秀な学生の受験増加を期待している。
かつて旧制度の下では司法試験合格者はダントツのトップ。法職につくなら東大法学部か中央大学法学部といわれたが、近年はかつてほどの勢いはなくなってきた。
これもやはり遠い多摩キャンパスへ移転したためであるのは明白だった。
普通の少年が将来は野球の選手になりたいというように、私も弁護士になりたいと漠然と考えた時があり、移転前の中央大学法学部法律学科を受験したが、ご縁がなかったから、都心回帰は感慨深い。
地方の受験生の心情理解できなかった経営者ら
当時の私立大学の経営者たちは、東京の大学を目指す地方の受験生たちの心情が、理解できなかったのかもしれない。都心に1時間半もかかる多摩丘陵は憧れていた東京ではないからだ。
かつて一度は入りたかった中央大学法学部が、都心移転でまたかつての栄光を取り戻すことを願って止まない。
もりもと なおき