お盆に亡くなった渡哲也さんはケガや病気に苦しんだ半生だった。改めて病歴を拝見すると30台の初めから肝炎、直腸ガン、大腸ガン、心筋梗塞、肺気腫など、普通なら心が折れてしまうようなケガや病気が絶え間なく、渡さんを襲っていたようだ。

男も女も惚れてしまう人だった
大役を途中で降りざるを得なかった時もあり、それでも第一線で活躍できたのは、周りを大切にしたお人柄の所以だろう。
多くの人がコメントを寄せているが『男も女も誰もが惚れてしまう人だった』ようだ。
しかしひとつ印象的であり気になったのは、自他ともに認める弟分だった舘ひろしさんが、新聞でもテレビでも、何もコメントを出していないことだ。
私はこのコメントを出さない、出せないのが舘ひろしのコメントだと思う。
辛すぎて出せないのだ。

羨ましいほどの裕次郎と渡の絆、渡と舘ひろしの絆
こんなエピソードを聞き2人の絆の深さを知ったことがある。
生前の石原裕次郎さんが舘ひろしにこんなことを言った。
『お前はなんで俺によそよそしいんだ』と。
これに舘は何も答えなかったが別の人にこんな説明をした。
『自分は渡哲也の直の人間だ。その渡を飛び越して社長(石原裕次郎)と勝手に喋ることはできないんだ』と。
このエピソードだけでも渡哲也と舘ひろし、石原軍団の義理と人情を大切にした絆の深さが分かるんではないだろうか。

裕次郎亡き後、33年間も守った石原プロの金看板
石原裕次郎亡き後、33年間も石原プロの暖簾を守り続けるのは、並大抵のことではなかったと推察する。
日活を辞めて石原プロに入る時、貯金を全て下ろし裕次郎さんに差し出した。もちろん裕次郎さんは受け取らなかったが、石原プロは倒産寸前だった。裕次郎に惚れて敢えて潰れかけの石原プロに飛び込んだのだ。
交友のあった多くの人がコメントを寄せているが、ここ数年は療養中で電話で話すことが多かったようだ。
私も肺気腫だった知人を見てその苦しさを知っているが、恐らく苦しい中、相当、無理をして電話で話していたのかもしれない。

普通の生活を大切にした大スター
銀幕の大スターにもかかわらず、普通の人たちとの交友も大切にしていた。石原プロの被災地支援も本気で取り組み、被災者との交流を大事にした。
愛妻は青山学院大学の1年後輩。息子さんも大手建設会社に勤める普通のサラリーマンだから、普通の家庭をつくっていた。
未練はあるけど悔いはないー。渡さんが生前、自分の死について語ったことばだ。
家族と仲間に未練はあっても、裕次郎さん同様、『わが人生に悔いなし』だったんだろう。
もりもとなおき