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令和は万葉集から。徳島の眉山も万葉集に詠まれたことに改めて感動

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万葉集ブームを歓迎したい

新元号『令和』のおかげで万葉集がブームになりそう。早くもゆかりの地、福岡県太宰府市の坂本八幡宮では、訪れる人が増えてきたと、ニュースが伝えています。

新元号令和は、奈良時代の大宰府長官、大伴旅人邸で開かれた"梅の花を見る宴"で詠まれた32首の歌の序文から採用されました。
地元としては降って湧いたようなお話し。万葉集研究家もテレビなどで引っ張りだこだ。

8世紀に詠まれたわが徳島の眉山

実はわが徳島の眉山(びざん、標高280m)だって万葉集ゆかりの山です。
さだまさしさんの小説『眉山』で少し有名になりましたが、まゆ山〜眉山の由来は実は万葉集からきています。

言い伝えでは734年、聖武天皇が難波の宮に行幸された時の歌六首のうちの一首。隋l行した淳仁天皇の兄、船王(ふなのおおきみ)が詠んだとされています。

眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ舟 泊しらずも

(万葉集、巻6、998)

この時代は何も視界を遮る建物もない。空気もよほど澄んでいたんでしょうね。恐らく難波の宮(大阪)から阿波を眺めたら、美しい眉のような山が見えたのだろう。
そして海には船が。その船が向かう先の港はどこにあるんだろう…みたいな意味でしょうか。

しかし歌に詠んだくらいだから、よほどその景色は美しかったと想像できます。

万葉から現在、悠久の時の流れに感動する

1300年近くも前、私たちの住む徳島を、時の天皇御一行が遥か大阪から眺めていたことに、私は感動します。

わが家の窓から眺めた眉山

もっとも眉のような山が眉山と名付けられたのはそれから1000年も後。
6代目蜂須賀さんが城内で開いた歌会で京都の歌人が。さらに阿波十か所参りをした漢詩人などが、まゆ山を題材にしたとか。

そして一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降とか。
しかし8世紀初頭に私たちが毎日眺める眉山を歌に詠んだことに感慨もひとしお。
令和が万葉集からとの説明を聞き、改めて窓から眉山を眺めました。

もりもと なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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