この偏差値という数字に、どれだけの中高生が振り回されてきたことか。受験校を決める絶対的な数字として、模擬試験結果が返ってくる度に一喜一憂した人は多いと思う。

偏差値の登場は受験界の革命だった
偏差値の無い国に行きたい!私なども心から思った時があった。
偏差値。弾き出す複雑な計算はあるが、簡単に言うとおおよそ平均点を取ったら50。平均点を上回れば偏差値も高くなるし、逆に下回ると低くなっていく。
これが登場したのは私たちのちょうど大学受験の1〜2年前頃だった。
当時は一般的な全国模試などというものは旺文社の模試くらい。大手予備校の駿台や代々木ゼミナール、河合塾もやってはいたんだろうが、まだ全国規模ではなく、あくまで予備校内の予備校生対象だった。
点数と順位だけが志望校を決めるデータだった時代
だから旺文社模試なども例えば英語・数学・国語の合計点、科目別で校内順位、県内順位、全国順位が付いた。それで過去のデータから、何番までなら○○大学とか、極めて荒い評価だった。
以前、徳島県庁に旧大蔵省から出向してきた職員で、高校時代、旺文社模試でトップをとり、記念カップを獲得したという幹部がいた。同世代だからびっくりしたが、もちろん東大法学部だった。
志望校決定を細かく支えることになった偏差値
そして偏差値が一般的になり、志望校選びも様変わりした。確か旺文社模試は合格率の順に『ホボカクジツ』『カナリユウボウ』『ボーダーライン』『サイケントウヲヨウス』などと、成績表に無機質なカタカナで書かれていた。
高3からは地元名古屋の河合塾模試も受けたが、旺文社模試と違い当時は受験者層のレベルは高く、偏差値はかなり低めについた。
例えば一度、数学で零点をとってしまったが、それでも偏差値は45という高さ。当時の河合塾模試なら偏差値57.5で東大がボーダーライン。普通の地方国立なら50で楽勝のところも多かった。旺文社模試とは体感で10以上は違ったような気がする。
冷徹に志望校選択を判断させた河合塾模試
そんな訳で浪人中は河合塾模試に振り回された。まだ東京、大阪には進出していなかったから東海地方の高3、浪人が中心だったが、それでもデータは豊富だった。

そしてデータから示された合格可能性評価も、極めて正確なものになっていった。つまりある大学の合格可能性50%〜75%なら本当にその点数の所属グループは、100人その大学を受けたら50〜75人合格していることを数字で示していた。4%以下の評価もあったが、100人受けて合格は本当にひとり二人だった。
このように偏差値は冷徹に受験生に数字を示したが、偏差値での志望校評価は当時はまだ完全ではなかった。
平均偏差値より科目毎の大学の配点が重要だった
つまり模試の評価はあくまで平均偏差値。文系、理系の場合、英語、数学の偏差値が完全に合否を左右した。
例えばある私大文系の英語・国語・社会の配点が100・50・50だとする。極端な例だがA君が偏差値で英語50、国語社会各70なら平均偏差値は63.3だ。
一方、B君は英語70だが国語社会は各55で平均は60だった。一見、A君の方が優秀だが、試験は圧倒的にB君有利。理系における数学の優劣もしかり。
やはり平均偏差値よりも科目の配点で合否は分析すべき。今は常識だが、偏差値黎明期は『平均偏差値』が幅を利かせたから、間違いも多かった。
『受験では自分は幸せな例外にはなれない』と思え
未だに予備校の相談教員が言った言葉が忘れられない。『君は合格確率の極めて低いところばかりが志望校だな』と。私は頭にきて、『河合塾の追跡調査では僕の偏差値でも何人かは合格してるだろ!』と。
これにその相談教員が言ったのは『それはあくまで例外。入試で自分が幸せな例外になれると思うな!』と。
悔しいけどこの男の言う通りだった。子どもたちが受験の時も、いい含めたものだ。
もりもと なおき