戦争の悲惨さとは全く別次元だった少年時代の戦艦大和への憧れ

少年時代は軍事雑誌『丸』の熱心な読者だったから、戦艦大和や零戦の性能などは宙で説明できた。大和の最後なども十分、知識があった。大和と零戦はプラモデルもいろんなスケールのものをどれだけ作ったかわからない。
大和と零戦への子どもながらの憧れは、戦争の悲惨さ、罪深さとは全く別の次元のものだった。
そして当時は大和や零戦を生んだ日本の高い技術力に、子どもなりに誇りを感じていたのは間違いない。
呉市の大和ミュージアムが戦艦大和を通して訴えたいこと
ずっと行きたかった広島県の呉市海事歴史科学博物館・大和ミュージアムを初めて訪れた。
かつて徳島県総務部長に財務省から出向していた現在衆院議員の寺田稔さんにその当時、構想を聞き完成を楽しみにしていたが、やっと行くことができた。

平成17年のオープンからすでに14年。延千数百万人の来館者は全国の歴史、科学系の博物館としては画期的といわれている。
訪れる年齢層もひじょうに幅広く、子どもから相当な高齢者まで。当初はかつての大和の乗組員も来館したという。
そして初めて来館して思ったのは、この施設は日本の戦時中の兵器の素晴らしさを礼賛するものでは、決してないということ。
戦艦大和という世界に類を見ない巨大な軍艦を通して、当時のわが国の技術の進歩と平和の大切さを伝えることがコンセプトになっていることだ。


戦艦大和建造の歴史的背景と、人々の営み、戦争の悲惨さ
同館の戸田一成館長もミュージアムについて『呉が建造した戦艦大和を通して、呉の歴史、呉の技術、そして平和の大切さを一人でも多くの人に伝える事を目的とした。これらの展示は決して面白いだけの簡単なモノではなく、技術・戦争・平和、こういった重い内容を持ったテーマと真剣に取り組んだ』と、している。
だから同館では大和は凄い戦艦だったと称賛だけするのではなく、この船を造るために当時の技術、人々の営みが様々な資料を通して紹介されているのだ。

そして造船の街・呉が戦前133隻もの戦艦や巡洋艦、空母を造ったことが、戦争の歴史に刻まれていた。
大和は昭和20年、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没したが、乗組員3332人のうち、生還者はわずか276人だった。
館内で見た13分間の映像には大和の悲劇と戦争の悲惨さが凝縮されていた。
もりもと なおき