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悲報…弘田三枝子の『人形の家』と'70安保前夜の日本

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自分の人生を歌で繋いでいく方なので、ある歌が流行っていた時のこと、自分がこの歌が好きだったという時のことは、昨日のことのように覚えている。弘田三枝子歌う『人形の家』は多感な高校時代の、強烈な思い出の一曲だ。その弘田三枝子の訃報が届いた。

人生を彩ってくれる歌は自分の人生そのもの

高校ではこの時、何をしていた、だれが好きだったとか、大学の時にどんなアルバイトをしていたとか、感銘を受けた本や友人と交わした言葉まで、流行っていた歌を聴くことで思い出すことができる。
その時代の歌を繋いでいけば、一本の私小説が書けると思う。

だから歌い手と音楽はとても大切だ。でもこの歳になってくると時々、訃報が届く。ほとんど会ったこともない人たちだが、活躍していた彼、彼女たちの死はやはり人生の儚さを感じてしまうのだ。

弘田三枝子さんの訃報が届いた

きょうも残念な悲報が届いた。
歌手の弘田三枝子さんが亡くなったという。享年73才だから、まだまだこれからだったと思う。

弘田三枝子というのは不思議な歌い手さんだった。若い時、少しわれわれの前から姿を消したと思ったら、全く違うキャラで登場したのは、われわれ世代ならみんな覚えている。

米軍のキャンプで歌っていたくらいだから歌唱力には定評があった。即ち、10代の時は健康的な体格ではち切れんばかりのパワフルな元気さで、ヒット曲『バケーション』や『すてきな16才』をうたっていた。

はち切れそうに元気だった10代のころ

10代と20代では容姿も歌も全く別人になっていた弘田三枝子

そしてある日突然、暫くテレビからも姿を消し、再登場したら全くの別人に変わっていた。

細くスマートに容姿が激変しただけでなく、再登場で大ヒットした『人形の家』は、それまでの彼女の歌とは、趣きを異にしたものだった。

自らダイエット本を書き、ダイエットブームに火をつけた。

時はあたかも'70安保前夜の1969年。大阪万博の前年だ。ざわざわした時代に妖艶な彼女の歌は妙に合っていた。

死因は心不全となっていたが、病気だったのかもしれない。心からご冥福をお祈りします。

もりもと  なおき

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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