いつの間にか事件記事が軽視されてきた新聞社会面
全国紙も地方紙もいわゆる切った張ったの事件記事が、いつの頃からか凄く小さくなっているどころか隅にに追いやられている。殺人や強盗事件でも簡単なベタ記事で済ましてしまうケースもある。
もちろん、新聞社にはそれぞれカラーと価値観の違いもあり、事件記事の扱いの大小は仕方ないが、どうも大半の社で事件記事がおざなりになっているような気がしてならない。

爆発的な人気だった
事件を追うことが捜査機関との癒着に繋がるわけがない
特にネットなどの投稿で気になるのは、ジャーナリストと呼ばれる人たちが最近の記者の劣化を嘆くだけならいい。
しかしながらかえす刀で事件取材をひじょうに軽視した言い方をするのは、完全に間違いだ。
例えば『事件着手の日を捜査関係者から聞き出すことにだけ神経をすり減らしている』とか、『きょう逮捕と事前に書くことを特ダネのように思っている。いったい何の意味があるのだ』など。
結局、彼らの言いたいのは"刑事や検事と癒着してなければこうしたネタは取れないから、その過程で新聞記者は堕落していく"ーみたいなエラソーな論調で結んでいる。
バカバカしい努力の積み重ねが記者の胆力を鍛える
バカも休み休み言えと言いたい。癒着してネタが取れたら世話はない。このつまらない、くだらないとも思われる努力が記者を鍛えてきたんだ。
逆に中央の政治記者たちの忖度報道ぶりを見るにつけ、駆け出しのサツ回り時代、ムダな努力をしてこなかったんじゃないかと思う。
ムダの積み重ねと胆力が鍛えられていないから、政治家に厳しい質問ができず、簡単にいい含まれているような気がしてならない。
記者より遥かに頭の悪い政治家のなめたような記者会見でも、怒ることさえないことに驚くのだ。

事件報道で特ダネをとるということの大切な意味
新聞記者になってまだ一週間も経たない頃、H先輩の取材は衝撃だった。そしてその体験が自身記者生活の原点だと今も思う。
ある中山間地域での主婦が被害者の強盗殺人事件。犯人逮捕まで確か10日ほどだったが前日の夜、先輩が記事を書いていた。
その中身に仰天したのは『今朝逮捕へ』の記事だった。
そして私には明日早朝6時に出て来いよと。
早朝向かったのは犯人の住むアパートだった。覆面パトカー数台に刑事は10人くらいで周りを取り囲む。
玄関から室内に入った刑事は数人だが、なんとその中に県警鑑識の制服を着てカメラを首から下げたH先輩が!
その日の夕刊には犯人が寝床からむっくり起き上がり、眠そうな顔をしたまま、まさに手錠をかけられる瞬間の写真が踊った。
これが特ダネと言わずに何と言おう。
特ダネに至る努力の前に、政治記者の忖度報道はゴミ以下
ここまでの先輩の努力たるや凄かったのではと推測する。
実は田舎の集会場が捜査本部となっていたが、先輩はなんと丸一日縁の下に潜り込み、全て聞いてしまったのだ。
真っ暗なところでメモを取ったらしく字はぐちゃぐちゃだったが、被疑者の住所氏名、着手時刻まで克明に記されていた。
そして現場に踏み込む時、刑事が誰一人、先輩の邪魔をせず完全に無視してくれたのは、日頃のたゆまざる努力による信頼関係だったんだろう。
H先輩は捜査関係者と信頼関係はあっても癒着はしてなかった。警察不祥事には信じられないほど厳しかったのだ。
先輩が着ていた鑑識の制服はその後、大きな現場に私が着て行くことになった。
もりもとなおき