私の古巣の新聞社幹部だったKさんの思い出の数々
もう時効だから書いてもいいかなと思う。もちろん私の信頼する後輩たちにはずっと伝えてきた。
私がいた地方新聞のお話だ。所詮、田舎新聞ではあるが、当時県内普及率は85%を超え、ダントツの全国1位だった。そして業務の健全化が職員の給料に反映するのなら、給与やボーナスも新聞産業で全国トップの時代があった。
そんな経営の礎を築いてきたのは先輩たちであり、中でもKさんはその手腕と豊かな人脈は社内外に響き渡っていた。
私の退職手続きの時、初めて心通わせた
K先輩は営業畑をずっと歩いてきた。職場の階も異なる編集局で、さらに出先の記者クラブで仕事をしていた私は、ご指導いただく機会は無かった。
しかし私が選挙に出馬のため退職する時、Kさんは総務担当役員。退職手続きなどについて初めてやり取りをさせていただいた。
そして思ったのがこの会社にこんな魅力的な上司がいたのかと、いうことだった。
私が議員になってからは陰になり日向になり、心配をしてくれた。
こんな人が古巣の社長になったらいいのにと、後輩たちとも話しをしたものだ。

S社長が、Kさんが社長打診を受けるよう説得して欲しいと
そんなある日、新聞社のS社長から私に話があると連絡があった。
S社長は早稲田の大先輩で私が在職中、なぜかまだ平記者の私に度々連絡をくれ、社内外の様々な問題について何かと私の意見を聞いてくれた。特命で対外的な重要案件の処理を依頼されることもあった。
この時も直ぐに行くと『K君に僕の後の社長を打診したら断られたよ。頑として聞いてくれないんだ』と困った表情だった。
それで私にKさんが固辞する真意を尋ね、『君からも社長になるよう説得してくれ』という話しだった。
もちろん私は嬉しくなった。説得できる自信はあったのだ。
やはり説得できなかったKさんのポリシーと、高邁な見識
善は急げ。社長室を出てその足で同じ階の会社の応接室でお会いしたが、Kさんは少し驚いて『どうしたの?』と。
私がS社長に伺った話しを切り出すとニコッと笑い話しを始めた。
Kさんはこう言った。『先生、その話は社長にお断りした通りで気持ちは変わりません』と。
Kさんは遥か後輩で部下だった私にも、きちんとした話しをする時は必ず敬語を使ってくれたのだ。
つまりKさんはこう理由を説明された。
『読者の皆さんの多くは、新聞は見識の高いインテリが作っていると信じている。私もそうじゃなければならないと思う』と。
そして『でも私は高卒です。そういう学歴的な意味ではインテリじゃないと思われますから、新聞社のトップにはならない方が良いんです。これは私のポリシーですから社長になることはあり得ません』と、静かに話された。
後に徳島県公安委員長となり急逝した
もちろん私は食い下がった。
『バカなことを言わないで下さい。新聞産業は学歴不問が誇るべきところです。一流大学出てるからインテリでもないでしょう。Kさんの指導力、あふれるような見識、豊かで多様な人脈は誰も敵いません。社長になって良い新聞を作ってください』と。
かなり説得したが、ついに首を縦に振ってくれなかった。
Kさんはこの後、関連会社の社長となり、県の公安委員に就任。3年目の公安委員長在任中の寒い朝、倒れ、66才で急逝した。
公安委員長の時、亡くなるわずか1週間前だった。県議会本会議で警察行政についての私の質問にご答弁いただいたことは、忘れられない。
葬儀で弔辞は飯泉知事、当時県警本部長で後に安倍政権の内閣情報官、そして現・国家安全保障局長の北村滋さん、そして私が読んだ。
新聞業界全体が凋落する中、あの時、社長になってくれてたらなあと、今でも思う。人生が2度あれば、また一緒に仕事をしたい。
もりもとなおき