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昭和63年1月7日、昭和最後の日。社会部記者の僕は宿直だった

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いろんなことがあった"平成"が残り少なくなってきた。私は今でも昭和最後の日と、平成の始まりの日が蘇ってくる。
天皇陛下と皇后さまには平成の日々を心から感謝申し上げ、いつまでもお健やかにと願わずにはいられない。

昭和天皇のご病状報道が激化した

昭和62年(1988年)の秋以降は昭和天皇のご病状が連日、ニュースで流れた。どのメディアもエース級を宮内庁記者会に投入、陛下のご容態についての取材に力を入れていた。NHKは故橋本龍太郎元総理の実弟、後の高知県知事、橋本大二郎氏を投入。連日、キャスターとしてもメインニュース番組に登場、陛下のご容態を報道した。

地方紙は記事を配信する共同通信頼りだが、それでも同社の情報を元に何度も部会を開きXデーの紙面づくりに備えた。

深夜〜未明にご容態が激変された時の宿直者の対応マニュアルも決めた。しかし宿直対象者は25人を超えていたから、誰もが『まさか自分が宿直には当たらないだろう』と、高を括っていた。

宿直で迎えた昭和最後の日

まだ松の内も明けない6日の晩から私は宿直だった。当然、時計が回れば7日となる。
年が明け、陛下のご容態は相当、深刻になってきたのは、連日の橋本大二郎氏の報道でもみて取れた。

『何かあったらよろしく!』。
7日午前1時過ぎ、遅番デスクが引きあげ、広い編集局でひとりになった。

いつも通り寝室に入り本を読んだりしていたが、共同通信の"ピーコ"と言われる放送がやけに賑やかになってきた。

これは共同通信からの有線放送連絡。放送前に"ピーポー"と鳴らすからピーコと呼ばれる。ニュースの予定、メモなどを記事の配信より先に放送で知らせてくる。

もちろんこの日、この時刻は全国の新聞は降板され、すでに印刷されている時刻。普段はピーコはまずあり得ない。
しかしピーポーじゃなく学校のチャイムのように"カランコローン"とけたたましく鳴る時は、大事件が起きたとき。これはみんな緊張する。

皇太子ご一家が皇居へ!全員呼び出さなければ

当然、この深夜は陛下のご病状が刻一刻、悪化されているとの連絡だった。
そしてずっと気にしていたら突然、けたたましく"カランコローン"と。

今でも覚えている。
『共同通信ニュース速報!』と、いつも冷静な共同の担当の声が上ずっている。

そして『今、皇太子殿下ご一家が皇居・吹上御所向かいましたっ!!』と。

確か午前5時頃だった。
これが皇太子殿下ご一家の天皇陛下とのお別れだったことは、直ぐに理解できた。

私はマニュアル通り、関係記者全員を会社に招集するため、受話器を握り締めた。
編集局長も社会部長もすぐに出てくれた。大半の記者が直ぐに応答。『直ぐに行く』と。次々と集まり、歴史的な号外発行の準備に入った。

昭和天皇崩御、そして平成の幕開け

天皇陛下は1989年1月7日午前6時33分皇居・吹上御所で崩御された。87歳。前年62年9月19日に出血されて以来、111日目だった。

昭和天皇の崩御により憲法と皇室典範に基づき、同日午前10時1分、皇太子明仁親王が皇位を継承し、即位された。
そして同日14時36分、小渕官房長官(当時)が、新元号「平成」を記者会見で発表、翌8日から平成はスタートした。

忘れられない昭和最後の日。そして平成が間もなくスタートとする長い長い1日だった。

もりもと なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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