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東京五輪前夜のあの輝いた時代。日本も人々も皆んな夢の中にいた

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私たちの脳裏に焼き付いたあの1964年東京オリンピック前後のいろんな思い出のシーンは、なぜか何れもモノクロのスチール写真のようだ。

1964年 東京・神田橋 首都高速道路

東京五輪音頭で否が応でも盛り上がった

それはそうだ。
テレビのカラー放送は始まってはいたが、どの家もテレビは白黒だった。オリンピックの名場面も人気番組『シャボン玉ホリデー』も『七人の刑事』も、池田勇人首相の演説も、ブラウン管で観るのは全て白黒だったからだ。

貧しかった日本も五輪景気に沸き、高度経済成長の幕開けだった。
国民的歌手三波春夫『東京五輪音頭』を歌い、日本列島に否が応でもオリンピックムードを高めていた。

池田勇人『所得倍増計画』のワクワク感

東京には何と街の中の高い場所に高速道路(首都高速)ができると聞いた。
池田勇人首相は『貧乏人は麦飯を食え』といいながらも『所得倍増計画』を発表。オヤジたちサラリーマンらのやる気に火をつけたし、それは初めての消費時代の幕開けでもあった。

池田勇人

学校へ行くと先生が5年の月賦で買ったピカピカに磨き上げた自慢のスバル360やマツダのキャロルも並び始めていた。

東海道新幹線は見えないくらい速かった

『夢の超特急・東海道新幹線』が開通したのはオリンピック開幕のわずか9日前だ。日本に来る世界中の人々に政治家も国鉄も自慢したかったから、大慌てだったんだろう。

高架を走る超特急を見た友だちには『速すぎて見えなかった』と教えられ、いつか乗ってみたいと、子ども心に夢を描いた。

この少し前、僕ら子どもが好きなものとして『巨人・大鵬・卵焼き』と、大人たちは言ったが、僕らは卵焼き以外には異論もあった。
つまり僕は巨人より杉浦や野村のいた南海ホークスが好きだったし、大鵬よりも職人肌の柏戸が好きだったからだ。

学校が終わればソロバン塾へ

習いごとと言えばせいぜいソロバン塾くらい(みんな1〜3級くらいは身だしなみとして取得した)。勉強の学習塾などはなかった(恐らく)。

日が完全に暮れるまで遊びほうけ、質素なおかずでご飯を3杯食べたあとはテレビを観て風呂に入り、朝まで爆睡したような気がする。
TVゲームなどもちろんないから『少年画報』や『少年マガジン』を何度も読んだ。

あんな青空は後にも先にも見たことない

東京オリンピックの開会式はテレビで見た。表に出たらNHKのアナウンサーが言ってたように、その日、1964年10月10日の日本の空は、全国どこでも見たことがないほど真っ青だった。
前夜の東京は激しい雨だったから、これもオリンピックの奇跡として伝説になった。

聖火台の急な階段を駆け上った聖火最終ランナー坂井義則青年が、自衛隊音楽隊のあの感動的なファンファーレの中、右手に持ったトーチを誇らしげに高々と上げ、聖火台に点火した場面で鳥肌が立ったのは、はっきりと覚えている。
とにかくカッコ良かった。

みんな『明日があるさ』と頑張った

オリンピックが終わった後の東京は、しりすぼみになるどころか、'70大阪万博に向かってますます繁栄を謳歌する。
なんと36階建の高層ビル・霞ヶ関ビルの建築も始まった。
街には坂本九ちゃんの『明日があるさ』が流れ、みんな今日より明日がもっといい日であることを信じ、一生懸命働いた。
そして間もなく3C時代の到来。クルマ(car)・カラーテレビ・クーラーが夢ではなく、普通の家庭でも持てる時代に突入する。

みんなが純だったかけがえのない時代

同じころ、実在した若い2人の大学生の交換日記がまとめられた『愛と死を見つめて』が空前のベストセラーに。


青山和子が歌う同名の歌を聴き、若くして骨肉腫で亡くなった『ミコ』と恋人『マコ』に若いカップルたちは純粋に思いを馳せた。映画は吉永小百合と浜田光夫のコンビが熱演した。

日本もそして東京も、まるで夢を見ているよう時代であった。

もりもと  なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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