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歌でつなぐ私の17才。切なくも甘い青春の日々

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青春17才の日々は未だ歌でよみがえる

楽しい時代のことは歌で覚えている。高校時代など誰でも楽しいが、私なども17才の高校2年生の時はとりわけ楽しいことばかりで、風邪で学校を休むのも嫌だった。

だからこの頃、流行っていたりよく歌った曲は自分の応援歌みたいなものだ。何をしていても未だにメロディーが浮かんでくる。

うちのクラスは久米君というクラスメイトが自分のギターをいつも教室に置いていた。誰でも使えたから、昼休みや放課後はみんなでいつも歌を歌っていた記憶が鮮明だ。

"フォークル"が教えてくれたたくさんのこと

ちょうどフォークが歌の世界を席巻し始めた時代だ。『赤軍派とフォークは関西から』と言われ、京都にいた岡林信康が『友よ』を歌っていた。この歌は当時、卒業式でゲリラ的に歌うのが流行ったのだ。


そしてなんと言っても私たちにいろんな意味で影響を与えたのは、同じく京都にいたはしだのりひこ(同志社大学)加藤和彦(龍谷大学)北山修(京都府立医大)の3人の大学生によるフォーククルセダースだった。


教室の後ろで

野に咲く花〜の〜名前は知らなぁ〜い〜♫

で始まる彼らの『戦争は知らない』をいつも歌った。
あと定番は五つの赤い風船の『遠い世界に』。この歌は今でも大好きだ。

"これが〜日本だ〜私の国だ〜♫しんどい時はこの歌詞が胸に染みる。

大学生のフォークグループは本当に多く、早稲田のザ・リガニーズの『海は恋してる』がヒット。フォークって関西だけじゃなかった。

吉田拓郎の登場は何と刺激的だったか

そして広島商科大学の吉田拓郎が『イメージの詩』をひっさげて颯爽とデビューしたのもこの頃だった。
"闘い続ける人の心 誰もが分かってるなら 闘い続ける人の心はあんなには燃えないだろう"
この歌詞はこの歳になるまでずっと、心の奥で響いている。私のアイデンティティにもなった。


森山直太朗のお母さん、歌唱力豊かな森山良子『禁じられた恋』などでブレイクしたのもこの頃。尚美ちゃんというクラスメイトの十八番だったのも、未だ彼女の健康的な笑顔と共に覚えている。

映画も観たし、映画音楽も大切だった

皆んなとは学校の帰り映画にもよくいった。名古屋駅前にはロードショーの映画館がいくつかあり、当時流行ったのはアメリカンニューシネマ。ピーターフォンダの『イージーライダー』は当然観た。
あと『ある愛の詩』や『卒業』『サウンドオブミュージック』は美しい映画音楽とともに心に残っている。

イージーライダー

初めてヘルメットを被り、初めてタバコ(ハイライト)を吸ったのもこの頃だ。共にドキドキしながらも、人生が一歩前に踏み出した大きな経験ではあった。

深夜放送、"いちこさん"への切ない思い出

あと深夜放送はお約束で毎日、午前3時までは聴いた。地元名古屋の放送局CBCの『オールナイトCBC』の超人気パーソナリティに『いちこ』というお姉さんがおり、彼女の担当の日(木曜日未明)はよく夕方、CBCのロビーに激励に。

ラジオで必ず『きょうは森本クンたちが来てくれたよ』と、嬉しい報告をしてくれた。

しかし僕らの高2生活が終わる頃、番組の最後に『きょうは皆んなに謝らないといけないことが。実は私、きょうが最後の放送だったの。本当にゴメンね』と。
そう言い残し僕らの前から姿を消してしまった。人気絶頂の時だけにナゾは深まり、そのことが雑誌にも載ったが行方は分からずじまい。彼女は元々、演劇を志していた。銀座のクラブに勤めながら有名劇団で頑張っていると、風の便りに聞いた。

友の初体験話しにコーフンした放課後

当時はガールフレンドはいても彼女などはいなかった。昔の高校生は今より遥かにオクテだったのだ。だからたまに経験したヤツがいると、放課後、取り囲んで話しを聞いた。その相手が隣りのクラスの女子だった時は生々しくて、みんな生ツバもんだった。

辺見マリが『経験』で、妖艶な雰囲気でデビューしたのもこの頃だった。

憧れの名古屋女子校御三家のお嬢さんたち

自分は公立の共学だったが名古屋にはお嬢さんが通う女子校御三家があり、それぞれのカワユイ制服は男子高校生皆んなの憧れだった。

金城学院、淑徳高校、椙山女学園で、電車で会うたびに勝手にドキドキしたものだ。


大学生の時、ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)で『ひとりぼっちの部屋』で入賞したシンガーソングライター高木麻早も、この頃は淑徳高校に在学していた。

最近、彼女とはメッセージのやり取りをさせてもらっているが、名古屋から全国区となった才能溢れたシンガーソングライターだった。


1年間という楽しい時間は直ぐに過ぎてしまう。当時、ロングランで流行った由紀さおりの『夜明けのスキャット』が流れると何故か勉強に急きたてられたものだ。

仲良しグループもそれぞれの受験生活に

3年生になると仲良しグループはほとんどバラバラになり、なんとなく重苦しい3年生がスタートした。毎日のように皆んなで寄っていた甘味喫茶へも足が遠のき、部活卒業後は栄にある県立図書館に籠り勉強するヤツもいた。

この頃の私の志望校は国公立はなぜか大阪市立大学、私立は同志社大学を志望していた。しかし高2で遊び過ぎ、河合塾模試はD評価でのスタート。山本コータローの『走れコータロー』ではないが、スタートダッシュで出遅れた。秋にはもう来年は河合塾へ行く話しをしていた。

高石ともやの『受験生ブルース』がやけに身に染みた。

もりもとなおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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