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私の人生で親分と呼べるのはこの人しかいない

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私には人生で2人の親分がいた。
そのひとりは徳島新聞の理事で、退職後徳島県公安委員長に就任した工藤教夫さんだ。


とにかく大きな人だった。営業、総務畑を、歩いた工藤さんに対し私はずっと記者だから接点は無かった。
選挙に出るため諸々の退社手続きで総務に顔を出すうちに話し込み『こんな凄い人がいたんだ』と、初めて知ったのだ。

以来、常に私の政治活動に心を配ってくれた。どんな面倒な相談事をしても必ず解決してくれ、心が軽くなった。

だから多くの人が周りに集まったのだろう。豊かな人脈を誇り、一緒にいると、様々な人たちと出会うことができた。いわば人間交差点みたいなところがあったのだ。

本当は徳島新聞の社長になるべき人であった。社内外の多くがそれを望んだが、自ら強く固辞された。

当時、早稲田の先輩でもあり私を可愛がってくれていた徳島新聞の江戸っ子、坂田雄幸社長が私を呼び、『実は工藤君が自分の後の社長を受けてくれねーんだよ。君、何とかしてくれねーか』と、私に特命の説得工作を依頼してきたことがあった。

私は退社し県議会議員となっていたから、社外の人間として工藤さんを説得したものだ。自信はあった。でも頑と首を縦に振らなかった。そして理由は…
『私は高卒だ。読者は新聞はいい大学を出た連中が作っていると信じている。それを裏切ってはいけないんだよ』と。

家庭の事情で大学に進学されてないのは存じていた。そんなことはちっぽけなことだと思わせるだけの知性と博学に溢れていた。
そして新聞社を運営する力はその時点で叶う者はいなかったはずだ。
この一件で私はますます工藤さんが好きになったのは言うまでもない。

奥さんを交通事故で早く亡くし、以降、不摂生が祟ったのだろう。66才で生涯を閉じた。

ひとりの自宅に帰るのは寂しかったのだろう。毎晩のように私や後輩の山口が食事のお供をした(彼女もたまにはいたようだが笑)
遥か歳下で元部下の私にも、大勢の人がいる前では必ず"森本先生"と呼び、過分な敬意を払ってくれた。ここが他の先輩や元上司と違うところだった。

2000人もの人が別れを告げた葬儀では飯泉知事、当時の北村滋県警本部長(後の内閣情報官、前国家安全保障局長)そして不肖、私が弔辞を読んだ。

いろんな思いがこみあげ感極まってしまったが、最後の別れにこう告げた。

もしも人生が二度あるなら、もしも人生が二度あるならば、もう一度同じ時代を生きたい…と。

もりもとなおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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