後藤田正晴と伊東正義という凄い政治家がいた時代があった。自民党が危機のとき、すなわち国民の信頼を失って政権を失う可能性があった時、総裁総理に担がれる動きがあったが、2人とガンと首を縦に振らなかった。

伊東は『自民党の表紙だけ変えても意味がない』と
総理大臣になるためなら悪魔とでも平気で手を結ぶのが普通の政治家だが、80年代に活躍したこの2人は違ったのだ。
伊東正義は自分を強く押す声に対し『(自民党の)表紙だけ変えても意味が無い』と、内部の改革、とりわけ金権政治の打破を強く求めた。
後藤田は『総理は若い時から総理になる覚悟を持った者が』
後藤田は自分は総理大臣になる覚悟を持っていないと、断った。つまり総理大臣になることを目標にしたことなどないということ。
後藤田曰く、"一国の総理たるものは若い時から総理を目指し、きちんと頭と心を鍛えてきた覚悟のある者がなるべき"というのが持論だったのだ。
そして自分は警察官僚だ。歳を取ってから政治家になった。総理大臣になろうなんて夢や覚悟はなかったーと、周囲の求めを一蹴した。
ともに官僚のトップに上り詰めてから政界へ
共に東京帝国大学法学部出身。2人は歳も近かった。政界に入るのも比較的遅かったが、直ぐに重用され"雑巾掛け"などなしに重要閣僚を歴任した。
伊東は農林事務次官として農林省のトップを務めたあと政界へ。
外務大臣や大平内閣の官房長官を歴任した。大平正芳とは官僚時代からの親友だ。
後藤田は内務官僚から警察庁に入り警察庁長官として警察組織のトップを務めた後、田中角栄に見込まれ政界に。
ともに親分である大平正芳、田中角栄も盟友だった。
2人が総理になっていたら自民党は変わっただろう
後藤田は中曽根内閣での官房長官を務めたが、『タカをハトが守っている』と揶揄された。つまりタカ派の中曽根が間違った方向に走らぬようハト派の後藤田が常に意見具申したのは有名だ。

イラン・イラク戦争終結に当たり、海上保安庁の巡視船か海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際「私は閣議でサインしない」と強く反対し、中曽根に派遣を断念させたのは後藤田の真骨頂だった。
総理大臣への誘いを強く断った2人だが、なっていたらと残念でならない。自民党政治のあり方が間違いなく変わったと思うからだ。
もりもとなおき