年末に久々に大学を訪ねた時、ずいぶん清潔で美しいキャンパスに驚いた。タテカン(立て看板)一つなく、建物内の壁にビラ一枚貼られていない。どうなってるんだ。私大入試も本格化してるが、受験生諸君、大学は案外、窮屈だよと、伝えておく。

えっ⁈タテカン一つなく、ビラ一枚なく
あの頃はタテカンだらけで向こうもよく見渡せなかった。教室にはセクトのビラが大量に舞っていた。こんなキャンパスへ通ったものとしては、ゴミ一つ落ちていないキャンパスに、逆に変な違和感を感じた。


政治的プロパガンダの看板ならまだしも、京都大学では一昨年、いろんなサークルのタテカンが市の条例を盾に大学側に強制撤去された時は、学生の自治はどうなってるんだと、不思議に感じた。
ある意味京大名物だったから、惜しむ声の方が多かったはずだ。
もっと大学の自治が優先されているだろうと思っていた京大だが、どうもそれは大昔のイメージで、勘違いだったようだ。
綺麗で清潔なキャンパスは学生の管理強化の証しだった
京大がこの調子だから、他の大学は推して知るべしなんだろう。完全に自治、特に学生自治を放棄したかのようだ。
学生運動が華やかなりし頃は、公安の私服刑事も大学キャンパスへ偵察に立ち入るのは命がけだったと聞いたことがある。
セクトの学生などに見つかったら、監禁され、ヘタしたらリンチの被害に遭うのは目に見えていたからだ。
激しい内ゲバでも大学は機動隊を要請せずだった
大学に入学した頃は、キャンパス内で目を覆いたくなるような恐ろしく陰惨な内ゲバ事件が連日のように繰り広げられていた。
救急車はひっきりなしに出入りしていたが、こんな目の前の暴行、傷害、殺人未遂事件に、警察は足を踏み入れることもしなかった。というよりできなかったのだ。
大学が要請しない限り、機動隊は遠くキャンパス外で見守るしかなかったのだろう。今ならにわかに信じられないが、そのくらい大学の自治は大切なものだったのかもしれない。
東大安田講堂を巡る学生と機動隊との攻防だが、あれは当時の加藤東大総長が、政府などの圧力を受け、最後の最後に決断したものだった。

大学の自治権放棄は学問の府の在り方にも影響
大学の若い後輩に『なんで看板一つないの?』と尋ねたら『そんなことしたら警備の守衛さんに怒られますよ』との返事で驚いた。大学の管理体制は、そこまで徹底しているのだろう。
しかしこれはどうも大学自身が学生を管理するため、大切な自治権を放棄しているだと思う。
国の助成金のこともあるのかもしれないが、やはり汚くても政治の匂いがするキャンパスが魅力的ではある。自治権放棄は学問の府の在り方さえも問われる。
もりもと なおき