後ろで名古屋弁が聞こえたことで親友に
芥川賞や直木賞が発表される度に思い出す友人がいる。先日も思い出した。
大学に入学して直ぐの時、後ろの方で『○○だがや』とか名古屋弁丸出しのヤツがいた。
で、私が『名古屋なの?』と話しかけたら『そうだがや!』と。高校が同じく名古屋だったので意気投合し、以来、そのKとは親友のような付き合いが続いた。
文学青年と引きこもりは紙一重なのか?
Kは小説家を目指していた。15、6才の頃はいわゆる引きこもりの走りだったのかもしれない。
実は高校は定時制だったので理由を聞いたら『毎日、朝まで本を読むから、学校は行けんようになったがや』とのこと。このため1年生で定時制高校に転校したという。
今、思えば文学青年と引きこもりは紙一重なのかもしれない。
しかしKと行った名古屋の飲食店などでは『定時制の時のクラスメイトだがや』と、スタッフと親しく話していたから、さすがに定時制は寝過ごしはなかったようだ。
"文学界新人賞を引っさげ、芥川賞獲るんだ"と
ちょっと文章を書いてもみんなと違っていた。物書きの才能はあった。彼の目標は文芸誌の名門『文学界』(文藝春秋社)で新人賞を獲り、その作品で芥川賞を獲るというものだった。まさに純文学の王道だ。

そのため『文学界』には定期的に投稿していた。そして3年の時だったか、ついに『文学界』新人賞の最終候補の一つに選ばれるという快挙を達成した。
その後、われわれも自分のことのようにドキドキしながら新人賞を期待したが、それは残念ながら叶わなかった。
新人賞決定の号に有名文芸評論家の批評が出ていた。彼の作品について『K氏の作品は難解過ぎて、何を言いたいのかさっぱり分からない』と。
確か『幽閉』と言うタイトルだったが、私も全く理解できなかったので、この批評にホッとしたものだ。
その次も『帰巣』とかのタイトルだったが、これもやはり難解で落選した。

エンターテイメントじゃなく純文学の王道を目指した
だいたい芥川賞などはその時代のエンターテイメントを求めている。
だから私は
「おまえなぁ、『赤頭巾ちゃん気をつけて』や、『僕って何?』みたいな、万人受けする軽くて重いテーマで書かなきゃ、永久に新人賞は無理とおもうがや」
と、私なりにアドバイスしたが、なかなか作風を変えるのは無理だったようだ。
Kの部屋には本箱がいくつもあり、埴谷雄高や吉本隆明、高橋和巳ら難解と言われた小説が並んでいたから。
Kが入れてくれた本格派珈琲の忘れられない香り
当時の学生はコーヒーはネスカフェのインスタントが普通だが、彼は豆から引いて香ばしい珈琲を入れてくれたものだ。
お母さんは名古屋の芸者さんで、そのひとり息子だった。『父親はいるが実は認知はされとらんがや。小説家として売れた時、この境遇は絶対、受けると思うがや』との身の上話しも聞かされた。
大学卒業同期の見延典子が『もう頬づえはつかない』で卒業して直ぐに芥川賞を獲ったことに、特にコメントはなかった。
卒業後は業界紙に勤めずっと小説は書いていたが、ついに花は咲かなかった。
たまに名古屋で会うのが楽しみだったが、もうずいぶん前に僕らの前からいなくなった。
もりもと なおき