後輩記者に闘う姿勢を教えぬ報道機関のぬるさ
記者たちに闘う姿勢が乏しいのは上司や先輩がきちんと鍛えてやらなかったからだ。これはあくまで自論だが、中央も地方も記者たちの情けなさを見ると、この思いが募る。
私は地方紙出身だが、先輩たちには感謝しかない。仕事から私生活まであらゆる部分で指南いただいた。
新人に対し大手の新聞はそれなりの研修期間を設けてはいるが、恐らくは実戦には全く役立ってないと思う。
実際に一つのことを取材し、苦労しながら短い記事を書く…。この本ちゃんのたった一回の作業に研修は敵わない。
記者修行は徒弟制度。仕事から遊びまで先輩を見る
私は記者修行は"徒弟制度"だと思う。先輩たちの取材の仕方、記事の書き方、人脈づくりを横で眺め仕事を覚えていく。
新人はまずサツ回りという警察担当になるが、ここで先輩たちが海千山千の刑事からどうやってネタを掴むか学ぶのだ。
一歩も引いてはならない時、あるいは引くフリをする時。基本、職務の全てが守秘義務のある警察の仕事だ。
だからと言って発表文だけではロクな記事は書けない。
どことも新人にサツ回りをさせるのは、記者教育する上で理に叶っている。
私が新人の時は先輩2人に手ほどきを受けた。ともに事件記者としても私生活も破天荒ぶりが突出した有名な2人だった。
彼らからは警察、検察からのネタの取り方、刑事たちとのお付き合いの仕方。あるいは暴力団の取材から夜の街の遊び方から女、バクチまで、全てに影響を受けたかもしれない。社会部記者としてのスキルを身につけることができた。
私の一番弟子だったA君の思い出
私も30代になれば後輩の指導をすべき立場になり、何人かの新人を預かった。自分のような経験をさせたいと思ったものだ。
忘れられない1人にA君がいる。大学は新聞学科の出身で、最初から目標の新聞記者になったことに幸せを感じていたようだ。
この男は将来、必ず編集のトップになり、新聞づくりを仕切っていくことは直ぐに予想ができたから、それなりに教育しようと考えた。
とにかく朝から夜中まで毎日、彼とは記者クラブを中心に生活を共にした。
血気盛んで勇み足も多々あった
彼はやる気がありすぎて勇み足もとにかく多かった。その度に怒りまくったが、いつも泣きながらついてきた。
馴染みの警察幹部からよく困り果てた電話がきたものだ。ある時は、
『もーさん、A君が捜査の覆面の車にぴったり付いて来る。これではガサに入れない』と。
この時は『バカヤロー!警察はオマエを連れてガサに入れるか!目的地でさりげなく待つのが常識やろ!』と叱った。

泣きながら事件関係者の病室に突入
ある時はある病院から『病室に泣きながらカメラ持った記者さんが突入してきました。やめてください』と抗議が。
これはその病院に重要な事件関係者が入院していたため、写真を撮って話しを聞いて来いと、確かに私が行かせたのだ。
ご丁寧に看護師さんに許可を取ろうとして断られたと連絡してきたので、この時も『バカヤロー!どうぞという病院がどこにある。見舞いを装って入るしかねーだろ!』と。
デカ部屋で大暴れし、署長からSOSが
あと驚いたのは県西部の警察署長から電話が。『もーさん、A君が捜査の部屋で泣きながら暴れて手がつけられない』と。
本人に電話を代わってもらい話しをしたところ『課長も係長も肝心なことを答えてくれない』と泣きじゃくる。
もちろん私は『バカヤロー!おのれの取材力の無さだろ。相手からの信頼感がないだけやろ!』と。
どうも暴れたのは、自分自身の無力さに腹が立ってのことだった。
数日後、A君の書いた立派な記事が社会面トップを飾った。
1年生の分際で、社会部長の指導に逆切れして部長を烈火の如く怒らせ、内勤を通告されたことも。 一緒に自宅まで許しを乞いに行ったこともあった。
やはりトップ記者として活躍してくれた
彼とは2年間、一緒に仕事をしたが、教えがいのある後輩だった。なぜか泣いてからが強かった。かなり無茶もしたが、闘う姿勢は私が教えてしまったのかもしれない。
私が選挙に出るため会社に退社を願い出た日。まだ職場にいたら家内から電話が。『A君が家に来て"辞めないで欲しい"って玄関で泣いて帰らない』と。最後まで泣くヤツだが、嬉しくなった。
もちろん私が退社後、社を支えるトップ記者として、内外に存在感を示していたのは言うまでもない。
彼の記者修行に私がどれだけの影響を与えることができたたかは分からないが、彼はどう思っているのだろう。
もりもとなおき