麻生発言、なぜ記者の責任において批判しないのか
過去に多くの政治家が失言し、謝罪を繰り返してきた"単一民族発言'を、また麻生太郎副総理がやったことを、多くのマスコミが取り上げている。

しかし大方が記事のリードに『批判を呼びそうだ』などと、批判を読者や第三者に委ねるという、主体性を放棄した卑怯な記述となっている。
とんでもない発言なんだから、なぜ記者の責任において厳しく断罪しないのか。
有名コラムニストも厳しく指摘
このことについて麻生太郎関連の毎日新聞を読んだコラムニストの小田嶋隆さんは次のようにツイートした。
"毎度思うことだが、「批判を呼ぶ可能性がある」というまとめ方は、「批判」の責任を他者に転嫁し、しかも「可能性」を示唆するにとどめている。二重の意味で腰が引けている。毎日新聞の記者は、足を踏まれた時、加害者に「私は痛みを感じる可能性がありますよ」と言うのか?"
記者の主体性放棄する極めて卑怯な手法
まさにこの通りなんだ。欧米の新聞ではあり得ない。記者がそのように感じ、許せないと思ったなら、自分の言葉で厳しく指弾したら良いと思うが何故それができないのか。そのことでもっと多くの声も湧き起こるはずだ。
ここが日本の新聞の弱いところ、読者の信頼を集めることができない最大の弱点。大新聞がそうだから地方紙も推して知るべし。
恥ずかしながら私も多用した
私も若い頃は自分がそう思うんだからと"許し難い"などと切り捨てたが、100%デスクから『これは君が思ってることだろ?君の考えの押し付けはいらん』と、ご指導が。
翌日新聞を見たら『批判の声が高まりそうだ』など、他人事になっていたものだ。そんな訳で以後、自分も全てこの手法になり、多用したことは今更ながら反省している。
この手法は世論を喚起するものじゃなく、日本の新聞が逃げ場をつくる極めて卑怯なやり方だと、言っておきたい。
もりもと なおき