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阿波踊りで思い出す日航機墜落事故の取材。丸33年、歳をとるはずだ

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1985年8月12日日航ジャンボ機墜落


阿波踊りがくると必ず思い出す。

阿波踊り初日だった。午後7時前。満席の日航123便ジャンボ機の機影が消えたとの速報が、日本中を震撼させた。

やはり墜落。世界最悪の航空機事故。バッグにNikonとフィルム10数本を放り込み、着の身着のまま、翌朝一番のTDAに乗り込んだ。灼熱の中、地獄のような情景が展開する取材活動。まだ30を過ぎたばかりだったが、気力と体力の限界を知った10日間だった。


700もの棺に呆然


一度に700もの棺を見たら、本当に人生感が変わった。群馬県藤岡市。御巣鷹山に墜落した日航123便の犠牲者520人の遺体が市内の小学校の体育館に次々と運ばれてきた。なぜ棺は700も?遺体の損傷は酷い。腕だけ、片足だけとかも多数。それらも何らかの手がかりを見つけ遺族に渡すため、大きな棺に大切に保管されたからだ。

徳島関係の被害者は10数人もいた。とにかくご家族に会わなければならない。遺族の待機所の1つとなった工業高校の体育館へ行ったが、そこだけで1500人はいる。

分かっているのは被害者の名前だけ。ご遺族の顔はひとりも知らない。どうやって…かなりの工夫を凝らし、わずか3日で大半のご遺族に会うことができた。

大きなお寺のお嬢さんは春に上智大学を卒業、社会人となって初めての帰省だった。仲睦まじい新婚夫婦。家族4人が別々の飛行機に乗り、母娘が犠牲になった。


エンゲージリングから夫婦が判明


遺体もなかなか判明せず、離れ離れになっていた新婚のご夫婦は、互いのくすり指にはめたエンゲージリングのイニシャルから、遺体の身元が判明。共に故郷に帰ることができた。

これは私の特ダネで、全国紙やテレビもこのニュースを追った。

同じ乗客には坂本九さんもいたし、その年優勝した阪神球団社長、中埜社長、妻子が乗っていた大関清国、グリコ森永事件で脅迫されたハウス食品の社長がいたことも大きなニュースとなった。

毎日、現地でいろんな関係者の会見も聞いたが、家族に遺書を残した人も多数。あの状況の中で、死ななければならない無念さと、家族と人生に感謝し、大学生の息子にお母さんを頼むと綴った企業戦士の遺書には泣いたし、凄い人だと思った。

あれから丸33年。社会も激変したし、私の人生にもいろんなことがあった。

もりもと なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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