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高田馬場を降りたら全部早稲田のキャンパス(のつもり)だった

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早稲田の街はどこから大学でどこから街かわからないー。
こんなナレーションで私の卒業した1977年春に放映されたNHKの『新日本紀行』は始まっている。

確かにそうだ。
皆んなが愛した食堂『おふくろ』も『三品』も『キッチンオトボケ』『メルシー』だって学食のようなものだった。

そして高田馬場駅から大学まで徒歩25分の馬場歩き(20円のバス代節約)では、ずっと繋がる商店街も、
途中の映画館早稲田松竹や立ち並ぶ古本屋も、
毎日のように立ち読みした駅前F1ビルの芳林堂、
パチンコ国際会館までもが全部早稲田の附属施設みたいな感覚だった。

その新日本紀行と、その46年後のこの春の早稲田の風景が数日前の明け方、『よみがえる新日本紀行…都の西北〜早稲田』のタイトルでNHKBSで放映された。

この3年間、コロナ禍で大学の街も大変だったが、また学生たちが帰ってきた。

"高田馬場を降りたら全部キャンパス"
学生と街が共存する、いつまでもそんな早稲田の街であって欲しいと願わずにいられない。

もりもとなおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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