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鳴門の旅館で強行された山口組四代目襲名披露。強烈な取材の思い出

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山口組が分裂。山口組対一和会に


事件担当の記者時代は暴力団関連の取材もたくさんした。徳島は暴力団山口組三代目、田岡一雄組長の出身地だ。地元にも山口組直系の超大物組長がいたし、関西や横浜にも県出身の大物組長が多数いた。そんな関係で、地方都市にしてはネタに恵まれ?結構、好きな取材だったかもしれない。

この中でもやはり忘れられないのは、田岡三代目亡き後の山口組四代目の襲名披露が徳島県鳴門市で強行されたことだ。

三代目の死後、警察庁、兵庫県警、大阪府警などの指導で関西は暴排機運が高まっていた。四代目については山口組内で2派が激しく対立。結果、竹中組の竹中正久組長が四代目に決まったことから、反目していた勢力が一和会を結成、ついに山口組が分裂した。

そして警察は四代目の襲名披露は絶対に強行させないと、会合ができる関西のあらゆるホテル、旅館には絶対に貸さないよう全て手を回していた。


なんと、鳴門市内で山口組四代目の襲名披露が


そんな中、噂もなかった(われわれが知らなかっただけ)が、鳴門市内の旅館でやるらしいとの情報が。慌てて裏を取ったところすでに内金も支払われていた。関係府県警が全力で阻止しようとしたが、結局、山口組は式を強行。警察は完全にメンツを潰された格好となった。

そして"山口組鳴門で四代目襲名披露"の記事は、徳島新聞の特ダネとなった。なぜ徳島で?地元の大物組長が極秘で下準備したものだった。

襲名披露会場となった鳴門の旅館


1984年7月10日。盃事には直系組長のほか全国の友好団体の親分衆ら113人が参列した。しかし親分1人に組員10人は同伴していたので、鳴門の会場周辺は1000数百人の黒い軍団で溢れた。メディアも多くの新聞、テレビ、雑誌が東京から次々と。

私は毎週、当時は"暴力団の機関紙"と言われた週刊実話、アサヒ芸能を買っていたが、雑誌でしか見たことがない大物組長が関西、関東から陸路、空路で鳴門へ。山口組幹部はもちろん、友好団体として稲川会や住吉連合、会津小鉄会のトップも続々と。

当日の襲名披露式の様子


会場入口では県警が名前を聞き、ボディチェックまでしたが、若い警察官が稲川会会長に名前を尋ねたから、びっくり。『稲川聖城です』と答えたのが静かだがエラいドスが効いて迫力があり、完全に東映映画だった。

週刊誌でいつも写真を見ていたので多くの大物とも初対面の気がせず(笑)何人にも話しかけ、若い衆に止められたりもした(笑)知り合いの実話の記者がそうした私の姿を写し、翌週の特集号に掲載されたり、とにかく興奮の1日だった(笑)

当日の盃事は立ち入り禁止だったが、なぜか約束があったようなTBSだけが中で独占取材。しかしわが社のあのパワハラ先輩も、ひとりだけ取材が許された(さすが!)


四代目、暗殺される。熾烈極めた山一抗争


ヤクザ社会の華やかで大切なしきたりだったが、この襲名披露からわずか半年余りの1985年1月…竹中四代目と若頭に就いた高知豪友会の中山勝正会長ら3人が、一和会系のヒットマンに暗殺されたのは、ヤクザ社会の抗争とはいえ、人生の儚さを感じた。竹中組長51才、中山若頭47才の若さだった。

この日夜、記者クラブでテレビを観ていたらニュース速報が。それから2年間、300件の山一抗争があり、27人の組員が命を失った。

もりもと なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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