『高3の夏休み最後の日曜日、マー坊たちといった大阪万博の強烈なインパクト』
昨年末、NHKの『知られざる1970大阪万博』の再放送を見た。俳優の佐野史郎さんがNHKアーカイブスにある当時の映像を追って、あの巨大な万博の"ナゾ"に迫るというもの。
半世紀も前の万博だが当時の映像を見るにつけ、高校3年生の夏休みの最後の日曜日、鈴木のマー坊、モリケンの3人で広い会場を汗だくになって歩いたあの1日が甦った。

『万博ももう終わるし、新学期になったら受験勉強もあるしもう行けんがや』と、3人で計画を。新幹線は高いから名古屋ー難波の近鉄特急で大阪へ向かった。
その日はカンカン照りでとにかく暑かった。目的のアポロ11号が持ち帰った月の石があるアメリカ館や、日本の『ナショナル』館など人気パビリオンは長蛇の列。何時間待つか分からない。直ぐに入れたアフリカや南米諸国のパビリオンを回った。
あとデカい紙コップに入った半凍りのフローズンコカコーラというのを何と6回も買ったのを覚えている。それほど暑かったのだ。
この年は'70安保闘争の時代とも重なった。6月には反安保の大きなうねりの中、日米安保条約は自動延長されたのだ。
そして前年まで吹き荒れた大学紛争では、独占資本の象徴としての万博粉砕が叫ばれ、『ハンパク』(反万博)として大きな闘争テーマにもなっていた。

この時代、なぜ激しい安保闘争と日本の経済成長の象徴となる万博が普通に共有できたのか。高校生ながら疑問だった。
やはり当時の日本は政治も社会もそれなりに大らかだったからかもしれない。
私も万博には批判的な高校生だった。だからあの会場に立ち、『人類の進歩と調和』は感じなかったが、その溢れるエネルギーには強いインパクトを受けたのを覚えている。
番組では岡本太郎がつくった大阪万博の象徴『太陽の塔』に焦点をあてていた。確かに当時、あのグロテスクな建造物は評判、悪かった。
しかしこの岡本さんが本当は万博に極めて批判的であったこと。太陽の塔は万博へのアンチテーゼであったこと。丹下健三氏ら超有名建築家の素案をことごとく台無しにしたことにも驚きだった。

今なら岡本さんは直ぐに政府に外され、ネットではネトウヨらの餌食になるだろう。
やはり佐藤栄作政権下でも日本はまだまだ違った考え方も尊重する大らかさがあったのは間違いない。
僕ら3人といえば万博開始以来、最高の入場者だった不運から、退出ゲートでは3時間待ち(地下鉄駅に入れないから)
帰りの近鉄特急にはその晩は乗ることができず、大阪市内に住み書道の先生をしていた愛子叔母さんのところで泊めてもらった。
翌日は梅田地下街などをぶらぶらして帰ったが、『大阪いいなぁ』と思ってしまった単純な僕は、翌春、大阪市立大学を受験することを決めた。やはり万博のエネルギーに引き寄せられたのかもしれない。
当時の大阪市の人口は400万人もいた。ちょうど200万人になった名古屋市の倍だったから、名古屋より倍は都会の感じがした。
マー坊とモリケンは『名古屋よりずっと綺麗な女の人が多いがや』と、キョロキョロしていた。
僕らの18才の夏だった。
もりもとなおき