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70年代の学生時代、土木作業しながら山谷のドヤ街で暮らした1カ月

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山谷で過ごした学生時代の1カ月

学生時代、少し胆力と体力をつけようと、いわゆる東京・山谷のドヤ街といわれたところで1ヶ月余り働きながら暮らしたことがある。
いまの台東区浅草の荒川区寄り。近くには吉原のトルコ(ソープランド)街があった。その時は同じとは知らなかったが、少年マガジン連載『あしたのジョー』の舞台となった泪橋もすぐ近く。
フォークの神様、岡林信康の『山谷ブルース』は、この山谷をテーマにしたもので、高校時代に流行った。


当時はこんな感じだった

一泊300円、ベッドハウスの思い出

ベッドハウスという一泊300円の簡易宿泊所が密集していたから、そこへ泊まることにした。家賃を払っている自分の部屋があるのにと考えたが、山谷で暮らしてみることが目的だったので、借りている部屋はそのままにしておいた。
仕事は毎日、土木作業だった。斡旋所で紹介してもらうが、大半は暴力団系と思われる手配師が呼びかけていた。まあ、即決の人材派遣のような。日当は高いほどキツいと思い、いつもそこそこの仕事にした。
紹介を受けたら並ばされ、幌の被ったトラックで、ほかの労働者と共に現場に運ばれた。トラックの荷台に人を載せるのは当然、道交法違反。『伏せて外から見えないようにしてくれ』と毎回、言われたから、どこへ連れて行かれるか、全くわからなかった。
現場は東京郊外や埼玉、千葉で、道路工事が多かった。

日暮れからが山谷の暮らし

夕暮れには山谷に戻るが、夕刻から労働者たちの生活に触れることができた。有名なあさひ食堂とか、安い食堂はたくさんあった。メニューは普通の学生食堂とさほど変わらなかったような。毎夜どんぶりメシと、一品、味噌汁にした。
食べるより酒をたくさん飲む人が多かった。安いホッピーと焼酎が圧倒的に多かったような気がする。
みんな疲れているからよく酔うし、明らかに肝臓が悪そうな人もいた。よく話しをしたが、東北や上越地方出身が多く、東京の人とは会わなかった。
季節労働で田舎から上京し、いろんな事情があるんだろうか。ここに居つき、戻らない人が多かったのかもしれない。
私は"大学をやめて実家に帰りたくないからここにいる"、ということにしたが、『若いんやからちゃんとした仕事をした方がいいぞ』といつも言われ、ウソに胸が痛んだ。

私はほとんど最年少だった

あと、バクチもみんな大好きだった。主流は花札とどんぶりにサイコロ3個を転がすチンチロリン。日当を全部放り込み、毎日、すってんてんになるオヤジもいた。
当然、酒を飲んでるから、激しい喧嘩も頻繁にあった。
もちろん、私は最年少の方。やはり40代〜50代が多かった。私が過ごした頃は1万人以上がそこで暮らしていたと、言われている。
凄いなぁと思ったのは、学生運動の活動家が山谷に入り、労働者の生活改善を呼びかけ、暴力団手配師などともガチで闘っていた。

実は山谷での体験をルポルタージュにするつもりだった。しかし多くの人に出会い、自分の底の浅さが嫌になり、ルポどころかずっと人に話すこともなかった。
確か生活費を除き5〜6万残ったが、山谷を去る日、吉原の高級トルコで全部使ってしまった。以後、ラジオで山谷ブルースを聴くと、2月の寒いドヤ街を思い出した。


今の風景

このドヤ街も今は宿泊料金が安いから、外国人が好んで宿泊する人気スポットになっているとか。

もりもと なおき

  • この記事を書いた人

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森本 尚樹 早稲田大学卒。元新聞記者。約20年間、県議会議員を務めました。現在は福祉関連の会社の参与と在京シンクタンクの研究顧問

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